戯言日記

話半分

青春の音楽

青春の音楽、と言われて、思いつくのはなんであろうか。

私の場合、思いつくのは相対性理論パスピエ(初期)、テイラースウィフト、きのこ帝国、ヒトリエ、ボカロ曲色々、あたりが主な青春の音楽として挙げることができるだろう。


音楽が好きで、色んな音楽を聴いてきたし、色んな音楽を聴いて色んな気分になったり、色んな場面で色んな音楽を聴いてきた。

人の趣味趣向は、ある程度時の流れと共に移り変わるものである。聴きすぎて飽きたり、前はそれほどでもなかったのに、聴けるようになったり。

音楽を聴く時、人はある程度何かしらの感情と結びつけて聴くものではないかと思う。聴くとワクワクしたり、少しノスタルジックになったり。




最近、相対性理論パスピエ(初期)の曲を、以前と同じ気持ちで聴くことが難しくなってしまったように思う。以前聴いている時に感じていた気持ちになることが難しくなってしまった、というか。


私は相対性理論パスピエを聴いていた時、一種の万能感のようなもの、ワクワクする気持ちを感じていた。これからどこへでも行けるような、これから誰にでも会えるような、これから何者にでもなれるような。


しかし時が経ち、ある意味大人になってしまった。大きくなって、もう気にしないでいられるようになったと思っていたのに、周りの目を気にするようになってしまった。「年相応の振る舞い」などというものを考える余計な思考がまとわりつき始めた。

もう何も考えないまま、ブランコで立ち漕ぎをして靴を飛ばすことはできない。鬼ごっこをするだけでげらげら笑えるほどではない。ドッヂボールの最後に、ボールの押しつけあいをできるほどでは無い。

体力と精神力の衰えを感じるようになってしまった。遊び倒すこと、続けること、エネルギー不足を自覚するようになった。

私は年齢としても、抱く気持ちや振る舞いとしても、少年少女ではいられなくなってしまった。それは誰も禁止していないはずなのに、暗黙の了解とでも言うかのように、「大人にならなければならない」という思いがチラついてしまう。

「大人にならなければならない」
「小学生じゃないんだから」
「将来のことを考えないとダメじゃない」

これからどこへでも行けないような、これから誰にでも会えないような、何よりも、これから何者にもなれないような。そんな気がしてきてしまうのだ。


大人になんかなりたくない、少年少女の万能感のまま、自由に過ごしていたかった。

だけれど時は止まってくれない。見た目も年齢も、年老いていく。待っておいてはいてくれない。

もしかすると、前を向いて進んでいかなければならない、という罪悪感があるからこそ、聴けなくなってしまっているのかもしれない。旬を過ぎて醜いまま、何者にもなれない自分が見えてきて怖いから。

だけれど時は止まってくれない。見た目も年齢も、年老いていく。待っていてはいてくれない。

少年少女という殻を捨てて、前に踏み出さなければならないのだ。ご飯を食べていくために、日々を暮らして行くために、世界で生きていくために。
誰も超能力なんて持ちやしない。魔法なんて使えやしない。

怖いのは責任があるからだ。何者にもなれない気がするからだ。夢見てきていたものに、自分が遠く届かない存在になるのが怖いのだ。

だからといって、なにもしないままくたばる道理もない。怖いからといってなにもしないままより、ほんの1歩でも3歩でも、前に進んでいく方がよっぽど何かに近づける。

実を言うと、中途半端に何者かになれる気が、きっとまだどこかに残っているのだ。そのくせなれないことにも薄々気がついていて、直視するのが怖いのだ。頑張るのが怖いのだ。緩やかに死を迎えて、現実としてそれが現れるのを待っている。

何者かになることを、諦めるにはまだ早い。何者かにある日突然なれることを夢見るのには、諦めるのは今この時だ。


青春時代にお別れを。何者かになることを諦めて、何者かになるために、もう一度、曲を聴き直そうと思う。まだ歳は若いのだ。諦めるにはまだ早く、諦めるにはいい歳だ。