戯言日記

話半分

愛情と心配

愛情にも色んな種類があって、ひとくくりに愛情とは呼べないんじゃないか、とここ最近思う。


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多分また後日、書き直すことになると思います
書いてから思ったけど、それなら「心配にも種類がある」のが正解な気もするんだよな、ただでも「愛情から心配する」のと「心配を愛情だと思う」ことは別だと思う、これが言いたいけどまとまらなかったな、というおきもち( 'ω'o[Now]o
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とあるツイートが流れてきた。「海外では「愛してるわ」といった直接的なことを言う文化は日本にはないけれど、日本にもそれに該当するものがあった。「ご自愛下さい」とか、「気をつけてね」とか、心配する言葉が日本で言う「愛してる」なのだ。」と。たしか、そんな内容だった。


そも、「心配すること」は愛情なのであろうか??
個人的にはどうも、違うように思う。
「あなたができるか心配で」「どうしてるか心配で」という様なことは、よく「愛情表現だ」と捉えられる。
しかし、その反対の「あなたはできると思ってた」「元気に過ごせてると信じてた」(というと、なぜだか一見冷たい様に感じてしまうのが不思議だが_____)という言葉達は、「信頼」を表す言葉だ。


愛情の反対として、よく無関心が挙げられる。これは概ねただしいと思う。では、「信頼」は無関心足り得るか。
信頼と愛情が並列することに、矛盾はない。
無関心と信頼の関係は、「信頼しているからこそ関心が薄い」、とも考えられるが、必ずしも信頼しているからといって愛情がない、とは結びつけることが出来ない。


私の祖母も、「心配」と「愛情」を同一視する傾向がある。彼女はその愛情を表すために、あらゆるものを心配する。帰宅、生活、交友関係、健康状態など___
勿論、「気にかけてくれている」のはとてもありがたい。ただ、彼女は何から何まで、あらゆる物を心配するのだ。「本当に心配してたよ______本当に心配で_____」

ここに、「愛情=関心」と「心配」の混同が存在しているように思う。

はたして、心配は愛情なりや?
答えは違う、と私は感じる。
「大学はここに行きなさい、これはお前の将来を心配してのことだ」
「門限は夜6時。それ以上遅いのは心配だから。」
「異性交遊は禁止。男の子と遊びに行くのはダメ。お前が心配だから。」

はたして、これらの「心配」は愛情なのだろうか。
信頼することも、また愛情とは違わないのではないか。その人はなしえることができる、と信頼することも、愛情のひとつではないか。
これらの心配はどちらかと言えば「執着」の様に、私は感じる。


上記のツイートをみて、私は真っ先に祖母のことを思い出した。優しい祖母。だけど、なにかとつけて「心配」したがる祖母。
もしかしたら、愛情と心配の混同は、日本の文化的な要素の影響が強いのかもしれない。別れの間際に、直接的な愛の言葉ではなく、気遣う言葉で相手への関心を示す文化の影響が。


そも人間は、愛情と執着を混同しがちではないか_____と言う話はおいおい、また別の機会に考えたいと思う。